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資本輸出国となって

八〇年代の大きな変化は、日本が世界の資本輸出国となったことです。自動車、電機などの産業で日本企業は圧倒的な競争力を発揮し、日本は大幅な経常収支黒字を記録しました。経常収支の黒字は、資本収支の赤字として海外への投資などに充てられることになりました。アメリカ国債の入札で積極的な海外投資に乗り出した日本の機関投資家の動向がアメリカの金利動向にも大きな影響を与えました。機関投資家の海外投資の活発化は、外貨投資のヘッジ取引を自由に行えることを必要としました。また事業法人についても海外直接投資を含む複雑な国際取引の中で、自由な為替取引を通じてのリスクヘッジの必要性が高まっていきました。このため八四年に実需原則の廃止が行われました。また、機関投資家については対外証券投資規制が急速に自由化されました。実需原則の廃止とは、それまで為替予約に当たっては貿易や投資などの具体的な取引の裏づけを必要としていたものを、個人や企業が実需と関係なく自由に為替先物予約を行えるようにすることです。激しい為替相場の変動の中で有効なリスク回避のためには、柔軟な為替取引の必要性があったのです。八四年には、これに続いて円転換規制も廃止されました。八〇年代の後半には、資本輸出国としての日本でのビジネスを求めて、多くの海外金融機関が東京へ進出してきました。東京市場は次第に国際的な市場としての体裁を整え、ロンドン、ニューヨークと並ぶ世界三大市場としての評価を得ることになりました。九〇年代のバブル崩壊の後、東京外国為替市場は大きな試練に立たされています。八〇年代後半の東京市場の変化は、一部には日本経済のバブルの反映でもあったのです。八〇年代後半には、日本の機関投資家や企業は高騰する日本株を背景に巨大な株式の含み益を持ちました。この含み益をバッファーとして、海外の債券投資や不動産投資に積極的に乗り出したのです。東京外国為替市場は、このような日本の機関投資家や企業の為替取引のおかげで、世界の為替市場に大きな影響を与えました。しかし、このような海外投資を支えた株式の含み益も、バブルの崩壊に伴う日本の株価下落の中で縮小してしまい、また多くの金融機関が国内に不良債権問題を抱え、機関投資家の海外投資もかつての勢いはなくなり、為替市場での取引量も頭打ちとなりました。加えて、バブル時代には東京の不動産価格やサービス価格は海外に比して割高となったため、海外金融機関は高コスト体質を嫌い、アジア地域における金融・為替取引の中心を香港やシンガポールに移す動きが始まりました。また、ヘッジ・ファンドのような世界的な投機資金が相場を左右するようになり、欧米市場はドル・円取引についても為替相場の主導権を握ることが多くなりました。その結果、東京市場の空洞化が懸念されています。さらにユーロの導入により、将来円はローカルな通貨となって、東京の国際金融市場としての地位が低下するおそれもあり、東京市場活性化のためには思い切った規制緩和が必要であるという認識が強まり、九八年の日本版金融ビッグバンの背景となりました。